沖縄視察報告

沖縄県糸満市・陸上自衛隊第一混成団・名護市研修視察報告

95年11月7日名護市「平和の石地」の前で「地方自治の平和政策」についての視察
1 はじめに 私たち新発田市議会議員5名は、今年が戦後50周年の歴史的に記念すべ き年にあたっており、日本国憲法の制定と地方自治法の下、曲がりなりにも 地方自治の発展と平和を享受出来たこと。しかも今日、国際化の波は否応な しに各地方自治体の施策に影響を与え、国際交流によって国際間係の主体で ある国家の任務の一部を地方自治体が担う時代を迎えたことに対して、地方 自治体が担うべき国際的任務はどう在るべきなのか。そして、特徴ある都市 づくりは、国際社会の分析と将来展望をどう見るかによって各地方自治体の 都市づくりや国際交流の政策は大きく異なっていき、自治体の発展も大きな 差が出る時代を迎えたと認識致しました.とりわけ戦後50年の今年は国際 関係の中で最も大切な平和の問題を歴史的に振り返って考え、苦悩しつつ取 っている自治体の平和政策を勉強すぺきであると考えました。 中でも沖縄は日本で唯一地上戦が行われ多くの人命が失われ、戦後も過酷 な異民族支配が行われた悲劇的な県であり、本土復帰後益々在沖米軍は再編 強化され戦闘機の墜落事故や米兵による殺人暴行事件は後を断たず沖縄県民 に犠牲を強いています。
今日も多くの基地に纏わる悲惨な事件が引き起こされている現実の中で沖 縄県の各自治体の平和政策を学ぶことは意義の在ることだと考え視察市を糸 満市と名護市といたしました。
また新発田市も都市づくりマスタープランの策定の中で、新発田の歴史と 文化を大切にし、人づくりを大切にして行かなくてはなりませんがそのため にも新発田市の国際交流や平和事業や平和政策がどうあるべきなのかを勉強 するために、沖縄県糸満市と名護市が適切であると考えました。

2日程

11月7日
7時00分 新発田市役所集合
7時05分 新発何市役所出発
9時00分 新潟空港離陸
12時00分 那覇空港着陸 昼食
13時20分 糸満市役所到着

糸満市の平和事業の概要について視察研修

糸満市議会事務局次長 豊平朝信氏

総務課長補佐・企画課長補佐

山城昭次郎氏・消防長上原健市氏より

15時20分 マイクロバス乗車

ひめゆり平和祈念資料館

平和祈念公園・新潟県死没者慰霊記念碑献花

平和祈念資料館・平和の磋視察

18時30分 都ホテル到着
11月8日
8時00分 都ホテル出発

南風原陸軍病院跡地(女師・一高女=ひめゆり置場所)・玉泉洞・首里城公園視察

12時00分 陸上自衛隊第一混成団視察
16時30分 都ホテル到着
11月9日
9時00分 名護市に向け出発

東南植物園・嘉手納米空軍基地・流球村

沖縄海岸国定公園・フルーツランド見学

17時30分 ホテル名護城到着
11月10日
9時00分 名譲市役所到着
9時20分 名護市の市政槻要及び国際交流・平和政策について視察研修
11時00分 ネオパーク・オキナワ見学
12時50分 名護市出発
14時20分 那覇空港到着
15時40分 那覇空港離陸
18時00分 新潟空港到着
18時40分 新発田市役所到着

3 毎日の視察研修と感想

A 現地で知らされた沖縄戦の現実と沖縄の歴史
実際沖縄に行って、沖縄戦の調査の結果、私たちには知られない沖縄戦の 多くの実態を教えていただきました.
それは次ぎのようなものでした、沖縄は日本で唯一の地上戦が行われ、米 軍約55万人に対して日本軍は沖縄住民の防衛隊員を含めて11万人であり、 (この他小中学校の生徒、青年団男女を軍の指揮下にいれ鉄血勤皇隊、学徒 通信隊、従軍学徒看護隊、救護隊を組織したが軍事教育がないためその6割 リが戦死している。米軍の沖縄上陸直前に日本軍の精鋭二個師団が台湾へ移 動したため、弱体部隊と現地の住民が戦闘の主体をになわされた.)沖縄戦 は人も物も現地主義の結果、戦闘に住民が巻き込まれ軍の手足まといになれ ば壕を追い出されたり、食料の強奪、集団自決を迫られ、スパイの摘発を受 けるという悲劇的な事態を生み出しました。沖縄の人々にとっては沖縄戦は 汚辱に満ちた戦争であり、国家とは、軍隊とは住民に対してどの様な行動を 取り、だれのために戦争を行っているのか教えた戦争だったのです.
沖縄戦は米軍の4分の1の兵力で悲惨な住民を巻き込んでの本土決戦の準 備の時間稼ぎの玉砕をさせられた戦いでありました.即ち出血持久戦術を取 った為最後まで抵抗した戦闘員や住民に戦死者が極端に多く、普通の戦闘時 の戦死者数と負傷者数と逆転しており、戦闘遂行上の手足纏いになった、住 民と負傷兵が真っ先に犠牲になった事です.牛島中将と長参謀がピストル自 決に際しても住民を『最後まで敢闘し悠久の大儀につくべし』と命じ、戦場 に投げ出した上、米軍司令官バックナー中将も戦死したことから『動くもの はなんでも撃ち殺せとの米軍の命令』の結果、戦場はいっそう悲劇的な実相 になりました.その結果、日本軍戦死者6万5千9百8人、沖縄県出身軍属 2万8千2百28人、沖縄住民9万4千人。米軍戦死者1万2千5百20人 となりました.沖縄住民の死者12万余人を出し、本土決戦の犠牲となり、 6月23日牛島中将と長参謀が自決の結果、組織的な戦闘は無くなりつつも その後も戦いは続き、9月7日の降伏文書交換まで沖縄戦は続いたのです.
すなわち沖縄戦は9月7日が本当の戦闘終結日であったのです.
その間8月15日に日本は降伏、本土決戦の時間稼ぎの犠牲になった沖縄 はその後も戦い、最後まで犠牲になり続けたのです.したがって、今日でも 沖縄の人々は8月15日を終戦と考えておらず、9月7日を終戦と考え、6 月23日を県民の休日と定めていることです.
戦後は日本の独立のためにサンフランシスコで締結した講和条約と、その わずか5時間後に日米間で締結した日米安保条約により沖縄は米軍支配を受 け、過酷な異民族支配が続きました.沖縄の施政権返還まで犠牲になり、施 政権返還後も、沖縄の一等地に居すわり、集中する米軍基地問題の犠牲にな り続けて参りました。県道104号を閉鎖して行われる実弾射撃訓練には着 弾地に阻止団が潜入、爆風で負傷し、逮捕されながら基地公害と戦って参り ました.現在も基地撤去の運動には万余の県民が参加し『人の輪で』基地を 包囲する運動が続けられていると名護市でいただいた新聞が伝えておりまし た.名譲市の総務課長補佐の説明では、終戦後10年して南部戦跡跡地の修 学旋行の体験談として『白骨が山のようになりブルトーザーで片付けていた』 『人間の肥料によりお化け野菜ができた』『とにかく20粁4方の狭い戦場 に日米軍人と沖縄県民20万人が死んだ』『目の前で、親が殺され、子が殺 された、思い出したくもない、喋りたくない、それが沖縄戦だ』.
私たちが沖縄視察研修の時と同じくして、『米兵による少女暴行事件』の 発生に沖縄県民は立場や思想の違いを越えて、静かな中にも激しく怒りの気 持ちを私たちに伝えてくれました.『米兵による少女暴行事件』に対する謝 罪、補償及び日米地位協定の見直しを求める沖縄県民総決起集会には思想信 条を越えて8万5千人の県民が参加し、今も抗議の座り込みが続けられてお り、県民の基地撤去を求める気持ちが一致している事を実感して参りました.
また、沖縄で見たテレビは6チャンネルが沖縄米軍専用チャンネルとなっ ており世界のニュースは勿論、料理から映画、子供番組間で放送されており 沖縄がアメリカの世界戦略の中でいかに重要であるか身を持って感じて参り ました.視察中も軍事基地の有刺鉄線が張り巡らされた中に綺麗な軍人住宅 と戦闘樵、弾薬庫、戦車や車両、青空に美しい星条旗を見て沖縄が軍事基地 の中にあることを実感しました.そんな中で、今日も嘉手駒町の様に面積の 85%も米軍基地になっており、沖縄の一等地が米軍によって占拠される中 で、軍事基地の中に沖縄がある状況の中でどの様な都市づくりと平和政策を 行い、沖縄佳民の気持ちと、各市町村の行政が平和についてどの様に考え行 動しているのかを教えていただいた結果、新発田市の平和政策や都市づくり、 国際交流と、日本本土の考え方はまったく甘くという実感をもって参りまし た.それだけ私たち5名の市議会議員には大きな教訓と示唆を与えていただ きました.

B 人口の40%戦死=行政機能喪失=4町村合併の糸満市の平和事業と平 和事業堆進実施計画・平和啓蒙普及に閑する条例の制定について
『余りの惨状に語りたくない、しかし戦争体験の風化を阻止し、平和の為 にいま語り、今平和事業を推進する.』と話す総務課長補佐のしっかりした 語りの中に真実がありました。糸満市では、平成2年3月議会で、核兵器廃 絶平和都市宣言を議決。平成5年9月議会で市長提案の糸満市平和都市宣言 を議決した。これは沖縄県内38番目で遅いという。この理由は、沖縄戦最 後の激戦地でもありわずか7粁四方の狭い南部戦線に10万人以上の住民と 3万の日本軍そこに米軍とがぶつかり会い、日本兵による壕の追い出し、食 料の強奪、集団自決の強要、スパイ嫌疑事件などの悲劇が発生、20万余人 もの戦死者を出した.糸満地区も2万8千人いた住民が1万1千人も死亡し、 住民の40%が戦争の犠牲になっている.そのために行政機能は崩壊、事実 上戦争によって地球上から村が消失し昭和21年に4町村が合併せざるえな かった.課長の話では戦後10年経っても白骨が山のようになっていたとい う。
住民は生きなければならず、平和の貴さは身に染みて感じていても、生き ることで精一杯であったという。その上、すべての住民が目の前で親や子が 殺されていく体験を持っている中で、あまりにも悲惨な戦争体験は言葉に出 したくもない。言葉に出した瞬間、戦争の実相と掛け離れ形蓋化してしまい 話したくもない。戦争体験集はその為原稿は集まらないという。原稿依頼に いくと『お前は悲惨な戦争体験を思い出させ、喋らせるのか』と抗議され書 いてくれないという。したがって、形式的な平和都市宣言や平和事業も沖縄 戦の実相とはかけはなれていたという。
今日漸く生活に安定を取り戻してみると、言葉に出すと形蓋化する現実と 風化が進む戦争体験の現実の中で何かをしなければと決断したようだ.あま りにも悲惨な戦争体験も言葉にしなければ風化が進み、平和の大切さが忘れ られてしまう事に危機感を持ち、平成2年3月議会でF核兵器廃絶平和都市 宣言』を決議.沖縄戦終焉となった糸満市の摩文仁の丘は今日も砲弾で消失 した緑は回復しなかったことに対して、平成5年4月戦争犠牲者の鎮魂と恒 久平和を希求し、失われた緑を回復するために第44回全国植樹際を開催し たとのことであった.
これを契機に、糸満市の基本理念である『ひかりとみどりといのりのまち』 のもと、平和の発信基地として世界の恒久平和を願うため『糸満市平和都市 宣言』を行い、平和行政を積極的に推進してきたという.
『糸満市平和都市宣言』式典は平成5年12月1日、糸満市の市政施行記 念日に開催、市内の小、中、高校より『世界平和や豊かな未来をイメージ』 した『壁画』を募集し会場に飾る中で式典は行ったという.
その後平和都市宣言に元づき糸満市平和事業堆進実施計画を策定、平成7 年3月議会で糸満市平和啓蒙普及に関する条例を制定したという.

C 糸満市平和事業は平和のために必要、異論のない議会
『沖縄も加害者でした.』の答弁に沖縄の心を感じる.
糸満市の平和事業堆進実施計画は平成7年5月に策定された.『糸満市平 和都市宣言と糸満市平和啓蒙普及に関する条例』にもとづき、糸満市を世界 平和を願う発信地として施策を実行しようとするものでした.
事業は平和モニュメント建設事業、平和宣言塔設置事業、平和堆進ソフト 事業の3本柱からなっております.
平和モニュメント建設事業は平和を願い、発信するシンボルとして糸満市 平和都市宣言及び糸満市議会核兵器廃絶平和都市宣言を刻印した平和モニュ メントを建設し、その愛称を広く市民から募集するもので、総予算は301 2万円でした.
平和宣言塔設置事業は平和都市宣言のまちとして平和創造への努力を喚起 し、平和の発信地を内外にアピールする目的で、平成7年から11年まで、 毎年1基建設.総予算3000万円でした.
平和堆進ソフト事業は平和運動の機運を高め、平和を築く世代育成のため 平和学習の機会と場を提供する目的で平成7年から11年まで毎年21の事 業を実施するもので総予算額は31,59万3千円でありました.
具体的には、戦争体験記編集事業、劇映画協賛事業、市民植樹事業、平和 音楽発表事業、子供議会開催事業、平和学習講座開設事業、演劇協賛事業、 平和教育研究指定事業、平和コンサート開催事業、講演会開催事業、先進地 視察研修事業、海上特攻艇基地史跡調査保存事業、市民平和フォーラム開催 事業、戦跡地めぐり事業、展示開催事業、平和作文コンクール事業等である.
これらの事業計画は地元マスコミにも大きく報道され各事業に着手してい る.しかしすでにふれたように、戦争体験記編集事業は戦争体験が余りにも 悲惨、かつリアルで書けない住民の心情が担当者に吐露され、時間が掛かっ ているとのことでした.また平和ガイド育成はポランテアで平和学習ガイド の育成を行っているもので、既に55人が登録、大学の教授などが中心とな って行っており大きな成果を上げているようです.沖縄の歴史、文化、文学、 沖縄戦と住民、戦場視察等のカリキュラムを終了した人を『各種平和事業で 活躍してもらう方向で』育成しています.
この他、黒潮『祈りの巡礼』サバニ・ピース・コネクションを市が後援、 与那国から広島まで2000キロをサバニ(小舟)で航海し、渡る島々で平 和を祈り、『すべての武器を楽器に』を訴えるイベントを実施.
平和トリムマラソンは平和祈念企園ないで2キロ、5キロのコースで市民 健康マラソンを実施、既に12回を数えている.さらに今年はウォークラリ ー部門を独立させ『平和の道歩け歩け大会』を実施、公園内の戦争資料を散 策し、市民参加による平和学習の機会にしていました.
糸満市平和啓蒙普及に関する条例は、世界の恒久平和を願い、戦争の悲惨 さ、平和の尊さの教訓を次世代へ継承し、平和行政を堆進する事を目的とし ています.具体的な事業として、
a 平和思想啓蒙普及に関する事業.
b 平和教育の堆進に関する事業.
c 平和に関する情報収集及び交流事業.
d そのほか市長が必要と認める事業.
を実施.市長は平和の尊さを市民に啓 蒙するために、平和週間を定めなければならない、という条例でした.その 結果、現在は平和週間は毎年6月17日から6月23日までと定めておりま した.
また、核兵器廃絶平和都市宣言に関し、新発田市の『中国・フランスの核 実験即時中止を求める決議』が日本が二度と再び加害者の立場に立たない決 意を込めて決議したとの我々の意見に対して、糸満市総務課長補佐は『沖縄 は朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争で米軍は世界に出撃しており、その意 味で沖縄も加害者である事を重く受け止めなければならない』との発言は、 これほどまでに日本本土の犠牲になり、毎日のように基地公害を撒き散らか され、命の危険に晒され、奪われてきた被害者であるはずの沖縄の人々が、 平和の問題をいかに真剣に考えているかを示す言葉として私たちの胸を打ち ました.最後に、平和堆進事業は糸満市の自主財源のおよそ1%であること・ 議会には平和堆進事業に異論はまったく無く.良いことはどんどん進めるよ うにと市長の平和事業に全面的な協力があるとのことでした.
庁舎でのブリーフイング終了時点に、糸満市議長山城昭次郎氏が見えられ 歓迎していただきました.また、糸満市消防本部の消防長上原健市氏が見え られ、新潟県の慰霊碑建立に際し、新発田市の伊藤氏が努力されたことを賞 賛し、糸満市では新発田市の皆さんは大きな顔が出来るし、我々も心から歓 迎すると挨拶されました.良き先輩のお陰で大変歓迎して頂きました・
その後、糸満市議会職員の案内で、平和祈念公園、ひめゆり平和祈念資料 館、平和の礎、摩文仁の丘を見学させていただき、新潟県の戦没慰霊碑に献 花して参りました.残念ながら平和祈念資料館は私たちが到着した時に17 時を過ぎており閉館のため視察できませんでした.

D 陸上自衛隊第一混成団視察
視察2日目は陸上自衛隊第一混成団でありました.午前中に、ひめゆり部 隊と称された、女師・一高女316名が最初に配属された南風原陸軍病院跡 地を視察、現地は病院の跡も全くあとをとどめていませんでした.ひめゆり 平和祈念資料館の資料によれば、彼女達は1945年3月23目深夜、ここ 南風原陸軍病院に組み込まれ、砲煙弾雨の中、身の危険を顧みず、負傷兵の 看護や死体処理、医療器具・薬品・食料や水の運搬など、命ぜられるまま、 歓身的に協力したのです.5月下旬、日本軍は敗走し、南風原陸軍病院や各 地の野戦病院も南部へ撤退.そして、すでに壊滅状態となっていた日本軍は、 喜屋武半島の戦場の真っただ中で、学徒隊に解散命令を下したのです.年端 も行かない生徒らを、米軍の包囲の中で、投降を許さず、地獄の戦場に放り 出したこの解散命令が、学徒隊の犠牲を更に悲惨なものにし、学徒・職員合 わせて219名が尊い命を失いました.
あれから40年余、言語を絶した当時の惨状は、片時たりとも私達の脳裏 を離れません.私達は、真実から目を奪われ、人間らしい判断や思考も、生 きる権利さえももぎ取られ、死の戦場へと駆り立てれられた、あの時代の教 育の恐ろしさを、決して忘れません.
戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、戦争体験も風化しつつある今 日、しかも、核の脅成にさらされる昨今の国際情勢を思うとき、私達は、私 達の戦争体験を語り継ぎ、戦争の実相を訴えることで、再び戦争をあらしめ ないよう、全力を尽くしたいと思います.
この思いをひめゆりの心とし、永遠に世界平和を訴え続けることこそが、 あたら生命を失った生徒らや職員の鎮魂と信じ、ひめゆり平和祈念資料館を 建設した.と説明があり、ひめゆり平和祈念資料館前のひめゆりの塔には多 くの学生が献花しており、米軍のガス弾攻撃で一挙に40名の犠牲者を出し た、ひめゆりの塔前の第三外科跡のガマも見れるようになっておりました. 館内には、語りべの姿も見られ、高校生が熱心に聞いておりました.
その様な事を思い出しながら南風原陸軍病院跡地を出発、玉泉洞に向かい ました.玉泉洞見学の後、首里城公園を視察しました.
かつて琉球大国の王様のお城であった首里城は沖縄戦で完全に崩壊、その 後琉球大学になったこともあったが、今日沖縄県の事業として復元工事を行 い石垣も復元工事中でありました.中は沖縄の歴史が一目瞭然でわかるよう に作られており.中国から支配されていたときの冊封使を迎え入れる北殿、 薩摩に支配下であったときは、薩摩の役人のための南殿・番所、王のための 正殿が復元され、その後の日本支配、アメリカ軍の過酷な異民族支配の歴史 と、宝物、中国清代の皇帝からの贈られた書等の復元したものなどが飾られ ておりました.観光地として、大型パスの地下駐車場も整備されており沖縄 県が観光に力を入れている様子がうかがえました.
12時に陸上自衛隊第一混成団を訪問、今日の陸上自衛隊の任務をお聞き 致しました.基地はとても広く、清潔で、南の太陽の下明るい感じが致しま した.
自衛隊新発田駐屯地の司令の経験を持つ陸上自衛隊第一混成団長村田秀信 中将より、自衛隊の食事をいただきながら話を伺いました・沖縄施政権返還 後、自衛隊は数々の困難を乗り越えなければならなかったこと、取り分け隊 員の住民票の受付け拒否の問題、行事への参加拒否の問題など大変苦労した こと.沖縄は島が多く急患輸送をやらされており、その為にヘリコプターが 墜落して隊員の貴い命が失われ、苦労しており、遅れている沖縄県の医療体 制の整備が必要であること.
災害出動は要請されるが理解がまったくされておらず命懸けの隊員の気持 ちが理解されておらないこと.特に不発弾処理は21,081件1,191, 7屯処理し、毎年約52屯の処理で沖縄では毎日出動があるとのことでした. ソ連の崩壊以来北方での緊急発信は半減しているが、尖閣諸島への領空侵 犯が急激に増加しており、台湾の漁船の領海侵犯も増えており第一混成周の 力では守り切れず米軍の力が必要である.中国、台湾、韓国の資源を狙った 領空侵犯に対応しているとのことでした.PKOのように手足を縛っておい てなにかさせようというやり方では、命は張れない.明確な国家目標を示し、 そのための十分な体制を整えて我々に仕事をさせるべきだ.サリン事件の様 に、ガス処理の先頭にたたされているのに、警察官よりも手当てが少ない、 こんな状況では問題にならない、とのお話でした.
不発弾処理の展示場には大人大の砲弾や爆弾が並ぺられており、懇切丁寧 な説明を受けました.最後に広報室で沖縄戦の説明を受けました.広いブリ ーフイングルームは、沖縄南部戦線のミニチュアが置かれ、説明はテープで 流され激戦の様子と日本軍の敗戦の模様が良く分かりました.
16時頃田村秀信第一混成団司令にお別れし、視察を終えました.

E 名護市平和政策について
視察最終日の10日名護市の平和政策について視察研修に望みました.9 時に市役所に到着し、まず市役所の外観にびっくりしました.お聞きしたと ころ15年前に建設、全国的な市役所設計のコンペを行ったところ全国30 8件の応募者の内から東京の象設計事務所が一位となり、現在の市役所がで きたとのことでした.市民のシンボルとして相応しく、省エネが基準になっ たといいます.沖縄の強い光を日除けで遮断し一切エアコン無し、エレベー ター無し、議場がダンスホールには早変りする、外見も美しい斬新なものだ ったが、今日は障害者に配慮がない、職員からは暑いなどの批判が多く問題 があるとのことでしたが大変美しく、南の太陽光線が遮断され素晴らしい効 果を上げていました.余談ですが、新発田の設計者も知っている大変有名な 市役所庁舎でした.
9時20分から、名護市議会議長我喜屋宗弘氏、議会事務局長又吉武志氏、 総務課長、企画係りより説明を受けました.
市政槻要については議会事務局長又吉武志氏から説明を受け、沖縄戦の説 明を受け、特に戦闘直前に精鋭2個師団が台湾へ移動したため悲惨な出血消 耗戦をし、多くの住民が戦争の犠牲となった.名護市への上陸した米軍が余 りにも膨大で、防衛していた日本軍は、米軍の上陸前に解散したため激戦は なかった.しかし、北部では住民の3人に一人が犠牲となり、南部では3人 に二人が犠牲となっている.軍事基地等対策特別委員会の活動は、米軍基地 のキヤンプ・シュワープが在り、しょっちゅう問題が発生し、その抗議にい くことが多く、昨年は事故も多く毎日のように米軍基地に抗議にいき忙しい とのことでした.事故は飛行機・ヘリコプターの墜落、誤ってパラシュート の着陸地点を誤り、民家の屋根に降りたなどいろいろ在るとのことでした.
名護市の平和施策、事業については、名護市非核都市宣言を昭和57年に 行い5か所に非核都市宣言の看板を出しているとのことでした.その他、 やんばる反戦の集いでロックコンサート、アニメーション映画の上映.県主 催の沖縄平和祭を平成5年に名護市で開催し、平和の尊さを訴えるパネル展、 小中高生徒を対象にした詩、作文、絵画の展示、国内外の非核都市宣言の実 施状況、平和に通ずる沖縄文化の紹介、未公開フィルムの公開などの事業を 行い、平和朗読劇では『この子たちの夏、1945ヒロシマ・ナガサキ』を 行ってきたとの説明でした.名護市を平和の基地にするために名護市出身の 死没者の名や戦争体験記、米軍の戦争体験なども教育委員会が中心となって 4つの事業を行うとのことでした.

F 名護市の国際交流
最後に、議長より、沖縄は歴史的に中国福健省、台湾との関係が強く、ア ジアとの関係を重視していくぺきだと思う.フイリッピン・ダバオには名護 市民が37名もいたこともあり、二度と戦争を起こしてはならないとの過去 を検証し、今後の方針をしっかり持っていきたい.そこで、テストケースと して、戦後50年でもあり、華南経済圏の中国福健省や、沖縄から半径70 0キロ圏内と仲良くする目的でダバオとの交流を持ってきた.近くは尖閣諸 島の領有権を巡り、中国、台湾、韓国との紛争も起きている.中国で混乱が 起きれば沖縄の中国の難民が押し寄せその人達も面倒見なければならない. そだけにアジアの人々と仲良くしなければならない、名護市の国際交流はそ の様な目的で行っているとのことでした.

G 名護市の基地に対する考え
最後に、大変意地悪な質問だと思いましたが、基地撤去と言っても現実に 基地で生活している人もあり、地主もいる.この事から基地撤去ごの後地間 題や産業が無ければ出来ないのではないのかとの我々の質問に対して.
『議会の3分の1が基地問題であり、生命の問題である.125万県民のう ち約1万人が基地従業員であるが基地は沖縄の一番良いところを占めており、 むしろ返還してリゾート地として開発したり、観光や他の産業を興し真の振 興策を実行していかなくてはならない』.『以前のドルが360円からする と100円となった現在、米軍基地経済は3分の1に縮小し、米軍家族も沖 縄市街で買い物は出来なくなり沖縄経済への影響は極めて少なくなり基地相 手の商売は成り立たなくなっている』.『過去にいろいろな事件があり、今 も続いている、沖縄少女暴行事件は悪質で許せない、今回ほど怒ったことは 無い』.『保守県政の時は基地問題を取り上げてくれなかった、怒りを感じ ている』.最後に総務課長の答えは『基地に頼る政策は愚民政策である』と も言い切りました.

H 沖縄の心
私達が、沖縄視察中は『米軍兵による少女暴行事件』が直前に起こり、大 きく世論も『沖縄基地問題と日米安保条約と地位協定』へ関心が持たれてお り、とりわけ10月25日の宣野湾海浜公園で開かれた『米軍による少女暴 行事件に抗議し、日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起集会』に は沖縄県民が8万5千人も集まったという.各自治体の広報や議会報はその 事を大きく報道し関心の強さを示していました.その中で取り分け参加者の 胸を打ったのが高校生代表の『もうヘリコプターの声はたくさんです』との 話であったといいます.琉球新報に載っていたその原稿を紹介し、『沖縄県 民の心』として視察研修報告のまとめにしておきます.

高校生代表・もうヘリコプターの音はたくさんです
もう、ヘリコプターの音はうんざりです.私はごく普通の高校3年生です. 大したことは言えないと思いますが、ただ思ったことを素直に伝えますので 聞いてください.
私はこの事件を始めて知った時、これはどういうこと、理解できない、こ んなことが起こっていいものかとやりきれない気持ちで胸が一杯になりまし た.この事件がこの様に大きく取り上げられ、9月26日普天間小学校で、 10月5日には普天間高校で抗議大会が開かれました.高校生の関心も強く、 大会に参加したり、大会の様子を見守っていた生徒も少なくありません.そ んな中、私はこの事件について友人たちと話をするうちに、疑問に思ったこ とがあります.米兵に対する怒りは勿論ですが、被害者の少女の心を犠牲に してまで抗議すべきだったのだろうか、彼女のプライバシーはどうなるのだ ろうかと.その気持ちは今も変わりありません.
しかし、今、少女とその家族の勇気ある決意によってこの事件が公にされ、 歴史の大な渦となっているのは事実なのです.彼女の苦しみ、彼女の心を無 駄にするわけにはいきません.私がここに立って意見を言うことによって、 少しでも何かが変われば、彼女の心が軽くなるのかもしれない、そう思い、 今ここに立っています.
沖縄で米兵による犯罪を過去までさかのぼると凶悪犯罪の多さに驚かされ ます.戦後50年、いまだに米兵による犯罪は起こっているのです.この儘 でいいのでしょうか.どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのか 私には分かりません.
まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けないことには、本当に腹が 立ちます.
米軍内に拘束されているはずの容旋者が米国に逃亡してしまうなんてこと もありました.そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発 するのは当然だと思います.それにこの事件の容疑者のような人間をつくり 出してしまったことは、沖縄に在住する『フェンスの中の人々』、軍事基地 内のすべての人々の責任だと思います.
基地が沖縄に来てからずっと犯罪は繰り返されてきました.基地があるゆ えの苦悩から早く私達を解放してください.今の沖縄はだれのものでもなくこ 沖縄の人々のものなのです.
私が通った普天間中学校は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります. 普天間第二小学校はフェンス越しに米軍の基地があります.普天間基地の周 りには七つの小学校と四つの中学校、三つの高校、一つの擁護学校、2つの 大学があります.
ニュースで爆撃機の墜落事故を知るといつも胸が騒ぎます.私の家からは、 米軍のヘリコプターが滑走路に降りてゆく姿がが見えます.それはまるで、 街の中に突っ込んでいくように見えるのです.機体に刻まれた文字が見える ほどの低空飛行、それによる騒音.私達はいつ飛行機が落ちてくるのかわか らない、そんな所で学んでいるのです.
私たちは今まで基地があることを『しょうがない』ことだと受け止めてき ました・しかし今、私たち若い世代も、当たり前だったこの基地の存在の価 値を見返しています.学校でも意外な人達が、この事件についての思いを語 り、みんなをびっくりさせました.それぞれ口にはしなかったけれども.基 地への不満が胸の奥に会ったということの現れだと思います.今日、普天間 高校の生徒会は、パスの無料券を印刷して全校生徒に配り『皆でいこう、考 えよう』、とこの大会への参加を呼び掛けていました.浦添高校の生徒会で も同じ事が行われたそうです.そして今、ここにはたくさんの高校生、大学 生が集まっています.
若い世代もこの問題について真剣に考え始めているのです.
今、この様な痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国に訴え掛けてい ます.決してあきらめてはいけないと思います.私たちがここで諦めてしま うことは、次の悲しい出来事を生み出してしまうからです.何時までも米兵 におぴえ、事故におぴえ、危機にさらされながら生活を続けていくのは、私 は嫌です.未来の自分の子供たちにもこんな生活はさせたくありません.私 たち、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください.
私は戦争が嫌いです.人を殺すためも道具が自分の身の回りにあるのは嫌 いです.次の世代を担う私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが、嫌な ことを口に出して行動していくことが大事だと思います.若い世代に新しい 沖縄をスタートさせてほしい.沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと 思います.そのために私も一歩一歩行動してゆきたい.
私たちに静かな沖縄を帰してください.軍隊のない、悲劇のない、平和な 島を帰してください.
以上で沖縄県糸満市・陸上自衛隊第一混成団・名護市研修視察報告を終わ ります.
95年11月10日名護市の市役所の前で。ここの市役所は冷房のいらない造りになっています。

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